22代ご門主大谷光瑞と大谷探検隊

※中仏在学中書いたレポート。


大谷光瑞(おおたにこうずい)

  • 1876年(明治9年)12月27日〜1948年(昭和23年10月5日)
  • 浄土真宗本願寺派第22世門主。伯爵。法名は鏡如。
  • 貞明(ていめい)皇后の姉 九条籌子(かずこ)と結婚。

人物像

  • 「驚嘆すべき記憶力と博識であった」と当時を知る人が異口同音に讃える。
    植物の名前はいつも原名で言っていたとの事。
  • 最新の外国の書籍や雑誌に眼を通し、漢籍に対しても読破していた。大連図書館に、読んだり朱をいれた洋書や漢籍が保存されているとの事。

生涯

1876 明治9年 第21代門主 光尊(明如)の長男として誕生。幼名 ○麿(たかまろ)
1885 明治18年 10歳 得度
1886 明治19年 10歳 上京。学習院に入学するが退学。その後、共立学舎という英学校に入学するも退学。京都に帰り前田慧雲(のち東洋大学学長・龍谷大学学長)に学ぶ。
1894-1895 日清戦争(日本勝利)
1898 明治31年 22歳 九条籌子と結婚
1899 明治32年 23歳 清国を巡遊
1900 明治33年 24歳 ロンドンに遊学
1902 明治35年 26歳 第一次大谷探検隊(1902−1904)
1903 明治36年 27歳 1月に父・光尊が死去。西本願寺門主を継職。第22代門主となる。
1904-1905 日露戦争(日本勝利)
1908 明治41年 32歳 第二次大谷探検隊(1908−1909)
神戸六甲山麓に二楽荘を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校(現在は甲南大学理学部)、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。文化活動の拠点とした。
1910 明治43年 34歳 第三次大谷探検隊(1910ー1914)
1913 大正2年 37歳 孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任。
1914 大正3年 38歳 大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため、門主を辞任。伯爵の地位から退き、大連に隠退。二楽荘と探検収集品もこの時に手放す。
1934 昭和9年 58歳 現代の様式の築地別院完成。(親交のあった東京帝国大学工学部教授伊東忠太による設計
1941 大東亜戦争(真珠湾攻撃)
1941-1945 戦争中は近衛文麿内閣で参議、小磯國昭・米内光政協力内閣で顧問をつとめた。
1945 昭和20年 69歳 膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留された。
1947 昭和22年 71歳 帰国
1948 昭和23年 72歳 別府にて死去。

大谷探検隊派遣当時の時代背景と派遣の動機と資料的価値

この頃、イギリスとロシアの中央アジアにおける政策により、中央アジアがひときわ世界各国の注目を集めた時代であった。両国は中央アジアを両国勢力の緩衝地帯にしようと暗黙の了解の元に各種の地質学調査を行っていた。

■  ロシア…1898年クレメンツ(Klements)をトルファンに派遣し高昌国の首都を発掘調査した。1909年から1910年にかけてはオールデンベルグ(Auldenberg)が調査している。彼は零細な資料を徹底的に探求し、破損寸前の壁画、彫像類だけを採集した。ドイツの探検隊とは調査方法が大きく異なり、事実壁画を多量に剥奪したドイツ隊を批判している。

■  ドイツ…1902から1903年かけて仏教学者グリューンウェーデル(Grunwedel)を主班とする探検隊をトルファンに送り込んだ。又、1904年四月から1905年にかけてル・コック(lecoq)を送りトルファン文化圏で調査させた。発掘は大規模にわたり寺院址の壁画、塑像群、古文書、工芸遺品を多数得た。また、各地の千仏洞の美術史的調査も行った。さらに1905年の末から1907年6月までグリュンウェーデルが、クチャ・トルファン・カラシャールを調査したが、これにはルコックも一時参加している。ドイツの探検隊は、壁画を切り取りヨーロッパに持ち帰った。その技術と成果は良い意味でも悪い意味でも注目された。

■  イギリス…スタイン(Stain)を送った。彼は1913年から1916年にわたり前後三回の調査をしている。ホータン、チェルチェン、ミータンと南道ぞいの有名な遺跡を次々と発掘し、最後には北道にも回りトルファン方面での考古学調査をした。

■  スウェーデン…地理学者ヘディン(Hedin)の調査研究は、考古美術品の発掘採集だけでなく、地理、地質、気候、生物などの調査もした。1927年中国人学者、ドイツ、スウェーデンの学者から成る「西北科学調査団」を組織しエチナ河畔よりヘミ、トルファン、ウルムチに出る調査旅行を行った。彼はこの調査団に、中国考古学者、史学者を加えたことで他の探検隊とは違う意味をもたせた。

 

光瑞の心配は、仏教の豊富な遺跡が異教徒(特にイスラム教)によって次々と破壊されること、数千年以上も砂に埋もれていたアジアの文化遺産が、その貴重性もわからないまま発掘され、西欧へ持ち帰られる事だった。

また、他の国の探検隊が地理学や考古学の関心から行ったものであるのに対し、仏教の開祖・釈尊が歴史的人物であるかどうかが疑われていたこの時代に、仏教伝来の道を明かにするという意図を主とするものであった。

光瑞は「西域考古図譜」の序文の中で次のように述べている。

 

おおよそこの前後三回にわたる探検において、私が其の目的とした所は決して少なくない。
しかも其の最大の眼目は仏教東漸の経路を明らかにし、昔シナの求法僧がインドに赴き遺跡を訪ね、又中央アジアがイスラム教徒の手に落ちた為に仏教のこうむった圧迫の状況を考察するような、仏教史上における諸々の疑問を解こうとするものであった。
第二に中央アジアに遺存する経論、仏像、仏具等を収集し、もって仏教教義の研究及び考古学上の研究に資料を提供し、もし出来うれば地理学、地質学及び気象学上の種々の疑問もあわせて永解させたいと考えたのである。

 

光瑞達は僧侶であったがゆえに探検を行ったといえる。仏教の研究を行う為に。だが、仏教徒であったがゆえの弊害も多々ある。まず光瑞達が専門家ではなかったゆえに資料の整理、分類、そして出土場所が曖昧であったり、全く記録されていなかったりするの事である。これでは資料としての価値は下がってしまい、又持ち帰った資料を研究する上でどうしても偏りがちになってしまう。美術考古資料よりも文献、古文書、すなわち経典類のほうへ研究のウェイトが置かれてしまった。

「東京国立博物館図版目録・大谷探検隊将来品篇」によると日本に到着した発掘品は、京都大学の松本文三郎・狩野直喜・桑原隲蔵・小川啄治・内藤虎次郎・榊亮三郎・富岡謙蔵・浜田耕作・羽田享、それに東大教授で京大講師であった滝精一らによって調査研究されたが、考古美術史的関係は、浜田耕作、滝精一の二人にすぎない。また光端は、全ての資料を研究機関に預けるようなことをせず、多くのものを手元に置いたため、このことが、コレクション離散を招く一因となってしまう。

成果と収集品のその後

・第一次探検

ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本田恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。光瑞はカシュガル滞在後、インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定した。渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。これが光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながる。

・第二次探検

橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれた。野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。有名な李柏文書(年代のわかる最後の紙)はこの時に発見されたと見られる。

・第三次探検

橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。トルファン地域からは善導大師書写の識語「願往生比丘善導願写弥陀…」をもつ『阿弥陀経』断簡の発見は、善導大師が『阿弥陀経』数万巻を書写して、自身の功徳と浄土教徒の受持読誦の勧奨に用いたという歴史的記述を実証するものとなった。

大谷探検隊の収集品は大谷コレクションと呼ばれているが、現在それは各国に分散し、また行方不明となっているものもある。
光瑞、自ら参加した第一回探検の収集品の一部は京都帝室博物館、今の京都国立博物館で展覧された後、そのまま預けられていた。そして光瑞が京都を去り神戸市外の二楽荘に移った時、収集品の一部も移され、そこでも展覧された。だが、直ぐに光瑞は旅順に移り、このとき発掘品の主要部分と蔵書を旅順に運んだ。発掘品の一部は旅順博物館に蔵書は満州鉄道図書館に寄託された。が後に蔵書は旅順博物館の所有するところとなった。この博物館は第二次大戦末期に一時ソ連に接収され、開放後に中国側に渡された。後に敦煌発見の経巻約600巻が北京図書館に移された。以上が現在中国に保管されている大谷コレクションである。

光瑞が日本から旅順へ移った時、かなりの量の発掘品を二楽荘に残していった。後に光瑞は、二楽荘と共に発掘品を久原房之助に売り渡してしまう。
発掘品は久原から、寺内朝鮮総督に渡り、彼はこのコレクションを核に朝鮮総督府博物館を建てる。  朝鮮戦争中にコレクションは一時、博物館を離れるが、後ソウルに戻り、韓国中央博物館で陳列される。これが韓国に保管されている大谷コレクションである。
京都帝室博物館で展覧された資料は、第二次大戦末期に木村貞造という人物に売り渡される。そして戦後、国家がこれを買い上げることになる。木村氏以外のルートで買い上げられたものと共に、現在東京国立博物館の東洋舘に所蔵されている。又仏典古写本断片の内五点が京都国立博物館に所蔵されている。そして1948年に光瑞が亡くなったあと、京都の大谷家の倉庫から見つかった資料と隊員が寄贈した日記や記録などは龍谷大学が持つている。又同大学は以前より研究資料として敦煌出土の経典37点を持っている。

しかし大谷探検隊が日本に持ち帰った全ての資料が、所在を明らかにしているわけではない。今まで述べてきたような複雑な経緯を辿る中で、流出してしまったものもあり、又分類、整理がきちんとされていなかった為に、大谷コレクションの全容を解明するのは困難なことになっている。

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