煩悩って悪いもの?※若干追記

車のエンジン

煩悩は人間の動力源!と同時に・・・

仏教では煩悩は我執(がしゅう)から生じると説かれます。

我執(がしゅう)とは、簡単に言うと、
「自分中心の考え、それに基づく物事への執着」です。

ちなみに煩悩とは「さとりを邪魔する欲望」のことで、煩悩の根源を、
よく「三毒」なんて言い方をします。

  1. 貪欲(とんよく)・・・むさぼりの心(必要以上に求める心)
  2. 瞋恚(しんに)・・・怒りの心
  3. 愚痴(ぐち)・・・真理に対する無知の心(十二因縁の”無明”)

仏教の理想は、「無執着(むしゅうじゃく)」すなわち、「何ごとにも執着しないこと」
と言えると思います。

だから、出家者は、所有物を捨て、出家して、社会から断絶した生活を送ります。
そうして、煩悩をなくすことに集中し、修行します。
でも難しいのは、その修行も、修行そのものに執着してはいけないということです。
「煩悩をなくすこと」に執着してはいけないということです。

大乗仏教はもともと在家信者の為に生まれてきた教えです。
社会から断絶せずとも、普通の社会生活を送りながらでも、
執着をしなければいいことになります。

以前、煩悩を、車のエンジンに例えて説明していた本を読んだことがあります。
※誰の何という本だったかは忘れました・・・^^;
煩悩はよく、苦しみの原因である悪いもの・排除すべきものとして否定的に語られることが多いかと思いますが、
その一方で、人間が生きていく上での活力源であるという肯定した見方もあると思います。

様々な欲望があるから、目標ができたり、結婚したり、子供が欲しくなったりします。
奥さん・子供とともに生活する為に、お金を稼ぎ、頑張っていこうと思えます。
「もっと~なりたい」という向上心が生まれてくるのもある意味、煩悩のおかげだと思います。

煩悩には、
人間の苦しみの根源の煩悩という悪い面
人間の活力源としての煩悩という良い面という
二面性があるんだと思います。

浄土真宗は私が煩悩のまま救われる教えです。
でも、何もしなくてもいいということでは無いと思います。
苦しみの根源である煩悩に少しずつ気付いて、なくしていくことは必要なように思います。
それだけ苦しみは無くなっていくわけですから。

浄土真宗では、

煩悩をなくすことに執着しなくてもいいんですよ!
その上で、
少しずつ煩悩に気付いて、少しずつ煩悩をなくしていこうよ。
苦しみの根源の煩悩を少しずつなくしていこうよ。
生きる活力源の煩悩はそのままでいいじゃないか!

ということを言っているのではないかな、と思います。

 

浄土真宗では、「さとり」という仏教で言うところの「結果」については、
「死んでから浄土で到るもの」という立場です。
結果第一主義の現代においてはちょっと、というか、かなり物足りない教えかもしれません。

それは、「さとり」という「結果」にとらわれる(執着する)こと無く、
結果に到るまでの過程を”問う”教えだからだと思います。
言い換えれば、
死(結果)にいたるまでの生き方(過程)を”問う”教えだということだと思います。

浄土真宗はある意味、仏教という教えにすら執着しない教え!?とも言えるんじゃないかな・・・なんて思う今日この頃です。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA