なぜ人を殺してはいけないの?

インターネットサーフィン(死語?)をしていて、
いろいろ考えさせられることがありました。
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今日は花金(死語?)にもかかわらず、
どういうわけか、時間がありあまっていましたので、

もし自分の子供から、

「なぜ人を殺してはいけないの?」

という質問をされたら、どう答えるか、考えてました。
※独身なので妄想です・・・orz

人のいのち、動物のいのち、虫のいのち、いのちは全て平等なんだよ。
そしていのちは、人がどうこう決めていいもんじゃないんだよ。
だから人に関わらず、動物、虫も殺しちゃだめなんだよ。

こんなとこでしょうか。

「何で?」とか「よくわかんない」

と言われたら、

理屈じゃないんだよ。だめなものはだめなんだよ。
仏さまがそう言っているんだよ。

以上です。

そもそも子供がこういう質問をする前から、
「いのち」について子供に伝えていった方がいいんじゃないかと思います。

信仰は理屈じゃないと思うんです。
仏教は理屈じゃないと思うんです。
仏教は学問じゃないと思うんです。

もしこの質問に、理屈で、答えようとすると、
「殺してはだめ」ではなくて、
多くの条件付きながら、「人を殺してもいいんだよ。」
と答えざるを得ません。

地球上では絶えず戦争が起こり、人が人を殺しています。
戦争なら人を殺してもいいことになります。
むしろ多くの人を殺せば英雄扱いです。

そして日本でも、悪質な犯罪者には、「死刑」があります。
重罪を犯した人は殺してもいいことになっています。

そして、正当防衛ならば人を殺してもいいことになっています。

人を殺すと自分が死刑になるから、殺しちゃいけない?
人を殺すと、その家族が悲しむから殺しちゃいけない?
自分がされてイヤなことは人にやってはいけない、
だから殺しちゃいけない?

この質問に対して、理屈で答えられる自信は僕にはありません。

そして、ふと!
独身の僕が、子供がいると仮定して、
色々妄想していることに対してのむなしさ、無意味さについても、気付いてしまいました。
いや、むしろ、早めに気付けて(現実に戻れて)よかったと思うべきでしょうか・・・。

「なぜ人を殺してはいけないの?」

どう答えますか?

大乗仏教のお釈迦さまは「人間」じゃない。

上座部仏教のお釈迦さまは、”人間としての”お釈迦さまです。
「仏」は、お釈迦さま以外あり得ない、と尊敬を込めて、
現在に「仏」が存在することを否定した教えです。

それに対して、
大乗仏教では、現在にも無数の「仏」が存在している

と説いています。
そして、大乗仏教のお釈迦さまは、神通力を持ち、空を飛ぶ、超人、スーパーマンとして教典に表現されています。もはや人間ではありません。(笑)

実は僕も仏教を学び始めた頃、教典を勉強しはじめた頃、
最初に、この点にひっかかりました。
教典では、お釈迦さまが空を飛んでいるではありませんか!
本当に、大乗仏教を信じて良いのか?と。(笑)

 

大乗仏教では三身(さんしん)と言って、仏のタイプを3つに分けています。

1、法身仏(ほっしんぶつ)

  • 無始・無終の存在の仏です。「真理そのもの(真如)」です。
    真理は見ることも言葉にすることも出来ません。(不可思議・不可説)
    お釈迦さまが発見する、しないに関わらず、「真理」自体は存在していました。

    • 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ) → 華厳宗 「奈良の大仏」
    • 大日如来(だいにちにょらい) → 真言宗
      この2つの仏さまは同じ「真理」を表しています。
      真理が2つある訳はないので、宗派で名前が違うだけです。

2、報身仏(ほうじんぶつ)

  • 有始・無終の存在の仏です。大乗仏教では無数に存在します。
    「報」とは報酬の意味で、立てた「願」と修した「行」に報(むく)いて、
    その結果として「仏(ほとけ)」になられた「仏」です。
    僕は、不可思議・不可説である「法身仏」が人間にわかるよう「方便」として
    出現した「仏」と解釈しています。

    • 阿弥陀如来(あみだにょらい) → 西方極楽世界
    • 薬師如来(やくしにょらい) → 浄瑠璃世界

3、応身仏(おうじんぶつ)

  • 有始・有終の存在の仏です。法身仏が、私たち人間を救うために、
    人間としての体をもってこの人間世界に出られた仏(ほとけ)。
    歴史上インドに生まれたお釈迦さまのことです。

    • 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

 

大乗仏教で言う「仏(ほとけ)」とは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。

言い換えると、
大乗仏教では、

お釈迦さまは、「法身仏(ほっしんぶつ)」の分身として、
人間の姿で真理を説かれた「応身仏(おうじんぶつ)」と考えます。

お釈迦さまは、「仏(ほとけ)」であり、

お釈迦さまは、「法身仏・報身仏・応身仏」です。

つまり、大乗仏教では、お釈迦さまは人間ではないんです。

大乗仏教の「仏(ほとけ)」とは、
「真理」であり、
「如来」であり、
「お釈迦さま」です。

実は、本願寺22代の、大谷光瑞ご門主の時代(明治時代くらい)には、
お釈迦さまが、歴史的人物であるかが、疑われていたみたいです。
でも日本では、大乗仏教の上記の様な考えから、歴史上の人物であろうが、無かろうが、
あまり問題なかったように思います。
それが近代日本に、学問として、様々な初期仏教教典が入ってきて、
「人間のお釈迦さま」という見方が圧倒的になりました。
最初に書いた通り、「人間のお釈迦さま」という認識で、
大乗仏教の経典は、とても信じられるはずがありません。

大乗仏教の経典は、物語形式になっているものが多いです。
文字を文字どおり読むのではなくて、その物語が何をうったえてるのか?何が言いたいのか?という教典の「こころ」を読み取るのが教典を学ぶということだと思います。

信仰は学問であってはいけないな、理屈じゃないな・・・と思う反面、
勉強したての僕がそうだったように、大乗仏教(日本仏教)ばなれが進むのも、
なんとなくわかりそうな気がしちゃう、今日この頃だったりします・・・。

 

六波羅蜜(ろくはらみつ)?

お釈迦さまが生きていた頃はもちろん出家信者と在家信者がいたはずです。
「対機説法」と言われるように、
出家信者に対してはふさわしい修行法を説き
在家信者に対してはふさわしい実践法を説いていたはずです。

お釈迦さまが亡くなると、

出家信者は自分達だけで教団をつくり、出家信者に対して説かれた教えだけをまとめて教典をつくります。
だから初期仏教教典には、在家信者に対する修行法、実践法が書かれていません。

後に、
若者中心の進取派からなる「大衆部」と
長老中心の保守派からなる「上座部」とに分裂がおきます。(根本分裂)
その後、最終的に二十くらいの部派にわかれます。

この流れをくむのが現在の「上座部仏教」です。

一方、在家信者達は、
お釈迦さまの遺骨を祀(まつ)った「ストゥーパ(仏塔)」を作り礼拝しました。

ちなみに、お釈迦さまの遺骨を荼毘(だび)に付したときできた遺骨を
「舎利(しゃり)」と言います。
※寿司屋の「シャリ」の語源です。

在家信者達の仏塔信仰がさかんになる中、
出家信者たちの作る教団は、学問仏教、難解を極める哲学的な方向になっていきました。

そして、在家信者達の中からお釈迦様の根本精神に立ち返ろうという大乗仏教運動が起こっていきます。

その大乗仏教の修行法・修行論
「波羅蜜(はらみつ)」と呼ばれています。
「迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸(ひがん)に渡るための修行法」
という意味です。

この修行法が六種類あるので、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。

  1. 布施波羅蜜(ふせはらみつ)・・・施しの修行 →関連リンク
  2. 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)・・・戒を守る修行 →関連リンク
  3. 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)・・・他人から受ける迷惑を堪え忍ぶ修行 →関連リンク
  4. 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)・・・努力の修行
  5. 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)・・・精神統一をする修行
  6. 智慧波羅蜜(ちえはらみつ)・・・智慧をみがく修行

※この六波羅蜜を実践する者を「菩薩(ぼさつ)」と呼んでいます。
※十波羅蜜・・・「方便」「願」「力」「智」を加えたもの。

そして重要なことが、

この修行そのものに執着してはならないということです。

これが難しい・・・というか僕は未だによくわかりません。

浄土真宗では、「六波羅蜜」は、その真似ごとのようなものはできても、
「執着しない心」「はからいの心」を持たず行じる”真の”六波羅蜜の実践は、不可能だ、
という立場です。

「六波羅蜜」は「仏」になるための修行法です。

ちなみに上座部で目指すのは、「仏」ではなく「阿羅漢(あらかん)」です。
※阿羅漢・・・修行者が到達できる最高の境地

大乗仏教では、
仏になるという「目的」よりも、その「過程」の重要性、つまり

「仏」を目指して人生を歩み続けていこう!

ということの重要性が説かれているように思います。

「仏」という、人間が到底到達できそうもない境地をともに目指す者同士には、
到達出来た者、到達出来ない者、
エリートとエリートじゃない者、
といった、人に差をつける考えは生まれてきません。
ともに「仏」にはなれない者同士なんですから。
※現実には人と差をつけてしまいたがるのが人間なんでしょうが・・・。
そこに出家者、在家者の区別はありません。

人間として、仏を目指し、仏の智慧を学び、人間として成長していくこと、

それが、日本の仏教が説く、仏教徒の歩む道だと思う、今日この頃です。

精一杯休む。

生きているということは確実に死に近づくこと。

一歩一歩確実に「死」に向かって歩いている。

「死」がむなしい、無意味なものであるなら、

「死」に近づくにつれ、むなしさ、恐怖感がつのっていくばかり。

 

もし「死」に意味を見いだすことができたら、

「死」が私が滅んでいくことではなくて、

「死」が、

「人として生きてきた私が新たな場所に往き生まれること」、

「私が先に見送ってきた、亡き愛する者とまた会えること」、

そして

「私が残してきた愛する者のしあわせを願い、見守っていくこと」、

と意味を見いだすことができたら、

「死」は決してむなしく、無意味なものでなくなるはず。

そして意味を見いだすことが出来たとき、

「私の死んで行く場所」が、

「むなしく無意味な恐怖の場所」

から

「私の還(かえ)るべき”ふるさと”」に変わる。

私のこころに、「還(かえ)ることのできる”ふるさと”」ができる。

私のこころに、よりどころを得た安心感が生まれてくる。

このとき「救い」は完成する。

 

後は人としての一生を精一杯生きるだけ。

その日その日、目の前のやるべきことを精一杯やっていくだけ。

朝起きて「今日も朝目が覚めたこと」に「ありがとう」。

夜寝る前「今日一日生かされたこと」に「ありがとう」。

一日一日精一杯生きていくだけ。

ひたすら目の前の現実を見て、ひたすら現実を受け入れて生きていくだけ。

ただただ現実を生きる。

世間にはびこる、変なおまじないや変な宗教に逃げることなく。

それでも現実から逃げたくなったら、

仏さまにちょっと甘えてみる。

「そのままでいんだよ。」

「逃げたくなるのが人なんだよ。」

ありのままの私を受け入れてくれる。

そしてまたひたすら現実を生きる。

成功するもよし。失敗するもよし。

仏さまの目からみれば、人生に成功も失敗もない。

そして、縁尽きて人生が終わったら、

あとはおまかせするだけ。

ふるさとに還るだけ。

(ひとりごと おしまい)

 

今日寳満寺の法務は休みでした。
部屋の掃除。
洗濯。
買い物。
サーカー観戦。※勝ちましたね♪
精一杯休みました。(笑)

にんにく?

にんにく

食べるときは、よく状況を判断してから。

お盆前に、月忌参りでお伺いしたお宅のおばあちゃんと野良ネコの話で盛り上がったことがありました。ガリガリにやせた子ネコが庭に迷い込んできたので、えさをあげてたら、なついてしまったそうです。

9月になり、先日またそのおばあちゃんの家に行き、
「子ネコまだ来てますか?」とあいさつがてら声をかけたら、
さびしそうな顔をして、ことのいきさつを話してくれました。

そのおばあちゃんによると

しばらく子ネコにえさをあげてたらしいんですが、
近所から、野良ネコにえさをやるなっ!ていうクレームがきたそうです。
「よかれと思ってえさをやってたけど、まさか、よそさまに迷惑をかけてるとは全く思わなかった。良い勉強になった。」

とのことでした。

私たちは普段意識せずとも必ず他人に迷惑をかけながら生きています。
私が「~の試験に受かった」ということは、
どこかの誰かが私のせいで「試験に落ちた」ということでもあります。

私達は生きているだけで、他人に迷惑をかけています。
だから、私も他人から受ける迷惑を堪え忍びましょう

ということが仏教でいう忍辱(にんにく)です。

かといって全ての迷惑を堪え忍ぶ、泣き寝入りする、ということでは無いように思います。
何を我慢すべきで、何を我慢すべきではないか、
その判断にあたっては、仏教の「智慧(ちえ)」のみせどころだと思います。
※「智慧」→物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「知恵」→Wikipedia

その後、おばあちゃんは子ネコにえさをあげてないそうです。
ただ、
「またガリガリにやせた状態で来たら、えさあげちゃうかもね、
見殺しには出来ないよね。」
と笑みをうかべながら言ってました。

 

「私は悪いこと何もしてないのに」
「私は正しいことをしてるのに」

と思うこころに、

「他人から受ける迷惑を我慢できるこころ」

はありません。

 

ふとこんな言葉が頭をよぎりました。

善人ばかりの家は争いが絶えない

善人ばかりの世の中になりつつありそうで、ちょっと怖くなったりする、今日この頃だったりします。もちろん、善人だと思ってしまう僕自身も含めてです。

 

※野良猫へのえさやりは全国的に(都市部?)問題になっているみたいです。
えさやり肯定派と否定派の方々がいて、どうやら、否定派が優勢?みたいです。
関連リンク
※食べる「ニンニク」は仏教のこの「忍辱(にんにく)」が語源だそうです。

ひとりごと

今世間をさわがせている「自殺問題」
そして医療現場における「介護問題」「尊厳死問題」
社会におけるさまざまな問題と、
どうかかわっていくか?
それともかかわらないのか?

今後の、
寺のあり方、僧侶のあり方、僕自身のあり方
を考えさせていただく、
いいご縁をいただきました。

https://kouseiji.com/blog/?p=624#comment-25
※何かありましたらお気軽にコメントくださいませ。

「戒」は厳守!?

「戒」のことを全然知らなかった浄土真宗僧侶の僕がいましたので、
「戒」についてちょっと調べてみました。

大乗仏教における基本的な「戒(かい)」が5つあります。
「五戒(ごかい)」と言われています。

  1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)
  2. 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
  3. 不邪淫戒(ふじゃいんかい)
  4. 不妄語戒(ふもうごかい)
  5. 不飲酒戒(ふおんじゅかい)

「五戒」は仏教徒であれば守るべき「いましめ」です。
実は「いましめ」の名のとおり、やぶったからといって特に罰則はありません。(大乗仏教)
※初期仏教(上座部)では厳守!
「戒律(かいりつ)」は罰則規定(律)がある。(出家修行者)

「戒」は古代インドの言葉(サンスクリット語)で「シーラ」といい、
「習慣」とか「習慣性」という意味だそうです。
「~するな」
ではなく、
「~しないような習慣を身につけよう」
というのが戒です。

つまり、仏教徒としての道を歩む、ということは、

私が

  1. 私は生き物を殺しません。(不殺生戒)
  2. 私は他人のものを盗みません。(不偸盗戒)
  3. 私は恋人・配偶者以外と性的関係を持ちません。(不邪淫戒)
  4. 私は嘘をつきません。(不妄語戒)
  5. 私は酒を飲みません。(不飲酒戒)

と自らを戒め、こういう習慣を身につけて生きていこう、という志を持ち、
生きていくことです。

 

今の日本で生きていく、生活していくにあたり、
「戒」を完全に守りきることは不可能だと思います。

時には、生き物を殺さざるをえないこともあります。
時には、うそをつかざるをえないこともあります。
時には?酒を飲むときもあるでしょう。

こういう状況のときに、決して開き直るんじゃなくて
私は「戒」をやぶっているんだ、という自覚を持つことが大切なように思います。
「戒」をやぶったときに、
「自分は弱い人間なんだなぁ」と自覚することが大切なように思います。

自分が弱い人間だ、ということに気付けたときにはじめて、
他人の弱さも許せるこころ
が持てるんじゃないかなと思います。

浄土真宗は「他力のおしえ」です。事実上「無戒」です。
ただ、浄土真宗が仏教を名のっている以上、仏教徒である以上、
自らを戒め、志をもち生活していくことは、とても大事だし、必要なことだと思います。
開き直っちゃいけないな、と思う今日この頃です。

蓮(はす)と鶏(にわとり)

泥の中から蓮(はす)が咲く

泥の中から蓮(はす)が咲く

蓮 と 鶏     作 金子みすゞ

泥のなかから
蓮(はす)が咲く。

それをするのは
蓮(はす)じゃない。

卵のなかから
鶏(とり)がでる。

それをするのは
鶏(とり)じゃない。

それに私は
気がついた。

それも私の
せいじゃない。

 

阿弥陀さまの願いは、生きとし生けるものすべてを救うことです。
そして、阿弥陀さまの救いは無条件です。

「善いことをしなさい」とか、
「念仏をしなさい」とか、
「信じなさい」とか、
「自力を捨てなさい」とか、
「~しなさい」という条件は一切ありません。無条件の救いです。

そしてその願いを「南無阿弥陀仏」の名号に込めて届けてくれてます。
あとは、その名号をただ受け取ればいいだけです。
難しいことを考える必要はありません。
届いたらそれが自然と「信心」になって、
届いたらそれが自然と「念仏」になります。

親鸞聖人は、晩年、
何事にもはからうことなく、あるがままをあるがままに受け入れた境地
「自然法爾(じねんほうに)」という言葉で語られています。

他力の教えの真髄だと思います。

お仏壇を買ったことはおどろきなり

お釈迦様がさとられたのが「縁起の法」です。
「因縁正起(いんねんしょうき)」とも言われています。

私がとった行動(果)には必ずその原因(因)と条件(縁)があります。
同じように、
私が感じた思い(果)にも必ずその原因(因)と条件(縁)があります。
そして、
私がとった行動・感じた思い(果)は同時に次の行動・思いの原因(因)になります。

以前、新しくお仏壇を購入したお宅に「入仏式(にゅうぶつしき)」でお伺いしたことがありました。

お仏壇を新しく買ったとき、お坊さんを呼ぶことが多いかと思います。そのことを一般的に、
「魂(たましい)入れ」なんて言い方をしますが、
浄土真宗では、お仏壇にご本尊(阿弥陀さま)をお迎えするという意味で
入仏(にゅうぶつ)」といいます。
「入仏式」とはあらたに仏さまをお迎えするお祝いの法要という扱いです。

今までこのお宅ではお仏壇がなく、最近、おばあちゃんが亡くなったので、それを機にお仏壇を買ったそうです。

ここで少し考えてみますと、

そのお宅の方が「お仏壇を買ったという行為」を結果(果)、と考えますと、
おおまかに言えば、お仏壇を買った理由(因)は、「おばあちゃんの死」でしょう。
ただそれだけではお仏壇を買うにはいたりません。
条件(縁)が必要です。

例えば、わかりやすいところで、

  • お仏壇が家に無いこと。
  • お仏壇を買うだけのお金があること。
  • お仏壇を置く場所があること。

という条件が必要です。そして何よりも必要なのは、

  • 「お仏壇が必要だ」という自らの思い

です。
お仏壇を買うだけのお金があっても、置く場所があっても、
「仏壇なんかいらねぇ」と買わない人はたくさんいるでしょうから。
これ以外にもたくさんの条件が必要になってくるはずです。

そのたくさんの条件がそろったとき、はじめてお仏壇を購入するという行為にいたります。
浄土真宗では、そのたくさんの条件を「ご縁」と言っています。

そして何よりも必要な条件である「お仏壇が必要だという自らの思い」は、結果(果)でもあります。
これまた「たくさんの理由とご縁」により、そう思える自分になっていたという結果です。

つまり、「お仏壇が必要だ」と思うことのできる私に、たくさんの理由とご縁により、
お育ていただいていた、ということです。

 

こう考えますと、

「私がお仏壇を買った」
(自発・能動的な考え方)

ということを言い換えれば、

「私がお仏壇を(亡くなった方を含め色々なご縁により)買わされていた」
もうちょっとましな言い方をすると、(笑)
「私がお仏壇を(亡くなった方を含め色々なご縁により)買わせていただいた」
(受け身・受動的な考え方)

とも言えるわけです。

 

このお宅の方からすれば、
「おばあちゃんが亡くなったから、お仏壇を買った」「当たり前のこと」
だと思っているんじゃないかと思います。

でも実は、当たり前のことじゃないんです。

「お仏壇を買った」ということは、無数にある「原因」そして「条件」がそろわないと決してあり得ない、奇跡とも言える尊い結果なんです。

最後に、どこかで見た、忘れられない言葉を。

「死は必然なり、生はおどろきなり」
(作者不明)

お仏壇はこころの鏡

お仏壇はこころの鏡